戦 後 体 験 記 (S2021)

 

あるとき,シルバーの集まりに,呼び出される。

伺ってみると,頭の薄い5080歳の懐かしき面々が,12名いた。その多くは,法学部や経済学部の出身者。7080歳の人達がほとんどであり,67歳の私は若い方になる。2040年ぶりに会う人達であり,話し出すと,若々しく 純粋な 万年青年の集まりだった。

すぐに,JHのよき時代に立ち返る。

「島さん,土木技術の伝承も大切だが,人間の伝承をしていますか」・・????「敗戦のとき,いくつ?」「小一です」「じゃー,戦後体験がありますね」「はい」「21世紀を担う後輩や若人に,その体験を 伝えていますか」「いやー 話題にしたことすら,ありません」「年寄りの債務でしょう!!  残念ながら,俺も,まだなんだよ」―などの会話があった。

  80歳の大先輩からの指摘は,骨身にしみた。

奮起し,この三週間で,「敗戦の昭和20年」から「落ち着く昭和26年」までを,つまり 満6歳から満12歳までの「戦後体験」を,次の16編にまとめ,最小限の使命を果たす。

21世紀を担う人達に 伝わらなければ,意味がない。

子供さん,お孫さん,お父さん,お母さん,奥さま,兄弟,友人,後輩,職場の人達 ―などとのコミュニケーションに活用していただければ・・・・との思いから,投稿します。

 

                                   

昭和20                                 (参考文献 日経ビジネス 創刊20周年特集1989.9.25)

 3 10  東京大空襲 (無差別絨毯爆撃) 2時間で死者数 10万人  空襲による死者数 全国で25万人

 4        米軍 沖縄本島 上陸  民間人 9.4万人 以上 が犠牲となる

 8  6   広島 原爆投下 14万人(投下直後の死者数) 

 8  9   長崎 原爆投下 7万人(投下直後の死者数)    ソ連 参戦                    

 815  「終戦の詔書」発布   

10         連合総司令部 (GHQ) マッカーサー元帥,公職追放・婦人解放・労働者の団結権など

             5大改革を指示

11         GHQ,財閥解体を指示

12         GHQ,農地改革を指示,婦人参政権

昭和21                        戦争 犠牲者 内訳 】

 1       天皇,人間宣言                   軍人・軍属    230万人

 3        チャーチル,「鉄のカーテン」演説 (冷戦時代)      外地 一般邦人   30万人

 5        第一次 吉田内閣                    戦災        50万人

             極東国際軍事裁判開廷                                 戦争 犠牲者  310万人

  我が国における太平洋戦争の犠牲者は,団塊の世代680万人 (S22~24生れ,現在58~60) 46%に相当する,310万人にも及んだ。庶民生活は戦時中より,むしろ戦後に窮迫の度を増した。人々は焼け跡を耕し,買い出しのため列車は常に鈴なりだった。上からの革命とも言うべき変革が,GHQ(連合軍総司令部)によって矢継ぎ早になされた。財閥を解体し,農地を小作農に解放した変革は,日本史上初の機会均等の“出世民主主義”を招来した。

)         参考文献  新村   広辞苑  岩波書店

太平洋戦争 第二次世界大戦のうち,主として東南アジア・太平洋方面における日本とアメリカ・イギリス・オランダ・中国等の連合国軍との戦争。1931 (S.6) 満州事変 に始る十五年戦争の第3段階で,中国戦線を含む。日中戦争の長期化と日本の南方進出が連合国との摩擦を深め,種々外交交渉が続けられたが,1941128日,日本のハワイ真珠湾攻撃によって開戦。戦争初期,日本軍は優勢であったが,1942年後半から連合軍が反攻に転じ,ミッドウェー・ガダルカナル・サイパン・硫黄島・沖縄本島等において日本軍は致命的打撃を受け,本土空襲,原子爆弾投下,ソ連参戦に及び,1945 (S.20) 814日連合国のポツダム宣言を受諾,92日無条件降伏文書に調印。戦争中日本では大東亜戦争と公称。中国や東南アジアなどアジア諸国を戦域に含む戦争であったことから,アジア太平洋戦争とも称。

ポツダム宣言 日本の降伏条件と戦後の対日処理方針を定めたもので,軍国主義的指導勢力の除去,戦争犯罪人の厳罰,連合国による占領,日本領土の局限,日本の徹底的民主化などを規定。原子爆弾の投下,ソ連の参戦により,1945814日受諾し,太平洋戦争が終結。

公職追放 戦後の民主化政策の一つとして,19461GHQの覚書に基づき,議員・公務員その他政界・財界・言論界の指導的地位から軍国主義者・国家主義者などを20万人追放。19524月対日講和条約発効とともに廃止,消滅。

財閥解体 敗戦後,連合国最高司令官の覚書に基づき,財閥を分散させ,その経済的支配力を除いた経済民主化のための処置。

農地改革 GHQの指令に基づき,民主化の一環として194750年に行われた土地改革。国が地主から強制的に買い上げ,小作人に売り渡した。この結果,地主階級は消滅し,旧小作農の経済状態は著しく改善された。

小作農 :地主から土地を借り,小作料を払ってその土地を自ら耕作し,農業を営む農民。

婦人参政権 戦後の民主化政策の一つとして,女性が男性と同様に国政に参与する権利,選挙権・被選挙権などが,昭和2012月の選挙法改正で初めて認められた。

極東国際軍事裁判 ポツダム宣言受諾に基づき,太平洋戦争における日本の主要な戦争犯罪人に対して行われた裁判。東京裁判とも言う。

 

まかぬ種は はえぬ

                      戦後体験記  「空襲・大分」 (1)

 

  敗戦の昭和20年,国民学校 (初等科6年・高等科2年) 1年生 (満6歳) だった。

  大分市春日町に,敗戦の4ヵ月前まで住んでいた。ジュラルミンの剥き出しでキラキラ光る小さな艦載機や,大きな爆撃機B29による空襲,焼夷弾による被災で,市街地が焼ける。その光景は,夜目に鮮やかで,悲しく,美しかった。

  日本軍は迎え撃つ飛行機もなく,大砲は届かず。その上を悠然と,プロペラの敵機は群れをなして飛んでいた。敵のなすがままだった。

  しかし,華々しい戦果,鬼畜米英,米英撃滅のみが,いつも聞えていた。

  官僚・特高・憲兵による国民生活全体の監視や情報管理が徹底した,今の北朝鮮と同じ,ほんとうに,狂った時代だ。恐いことに,我々には,この血が流れている。

 

 「防空壕から抜け出し,見とれている,我が子を叱り,防空壕へ連れ戻す。この繰り返しだった。」と,母はしみじみと語っていた。「この子が,こんなにも,大きくなったのか。」と,懐かしんでいた。なぜか,その時は,いつも涙ぐんでいた。

  増兵のため「産めよ,増やせよ」,当時としては少なく,子供は6歳を頭にして,男男女女の4人兄弟である。人を,戦争の消耗品としか見ていない,つい60年前の官僚ら。

  毎日,必死に,もんぺ姿で,我が子を守り続けている,20代後半の母が目に浮かぶ。

 

)         参考文献  新村   広辞苑  岩波書店

「まかぬ種は はえぬ」 物事は,すべて原因と結果から成る。何もしなければ,当然,何も起こらない。言うだけで,何も行動を起こさない人に,この格言はあてはまる。なにかを得ようとするなら,それなりの行動と努力が必要だ。

国民学校 1941年に小学校を改め,戦時体制への即応と皇国民の基礎的練成を目的とした初等教育機関。

戦艦・巡洋艦などに積載し,カタパルトによって発艦する航空機。

第二次大戦で,アメリカが,日本の住宅地を焼き払うために作った爆弾。

    特別高等警察の略称。旧制で,思想犯罪に対処するための警察。内務省直轄で,社会運動などの弾圧に当った。敗戦で廃止。

    軍事警察をつかさどる軍人。旧軍では陸軍大臣に属し,陸海軍の軍事警察および軍隊に関する行政警察・司法警察をつかさどった。のち次第に権限を拡大して,思想弾圧など国民生活全体をも監視するようになった。1881(明治14)設置。敗戦で軍隊と共に解体・廃止。

空襲の際に待避するため,地に掘って作った素掘りの地下壕。

もんぺ姿 袴の形をして足首のくくれている,股引に似た衣服を着た姿。着物を着て,その上からもんぺを履き,白いエプロンをしている。戦時中における,婦人の日常的な姿。洋服姿は戦後からである。

    特に,政策決定に影響を与えるような上級の公務員の一群。

 

まかぬ種は はえぬ

                     戦後体験記   「戦中の暮し」 (2)

 

「焼夷弾がひっかかり,消火に支障がある」との命令により,天井は取り去る。屋根裏の見える,暮しに急変する。また,戦争に必要な金属材料が足りないので,なべ・釜・タンスの引き手,…………など,あらゆる金属類を供出させられる。お寺の梵鐘までも供出し,ミシンも提供させられた。学徒動員のお姉さん方が,このミシンで軍服や国民服などを縫製する。灯火管制で,電灯を黒い布で覆う。停電はしょっちゅうであり,マッチと蝋燭が活躍する。

 

  大分師範の付属に入学する。

  その時代,1~2年生のみが男女共学だった。女の子が隣席にいた。@空襲警報のたびに,学校の防空壕にしょっちゅう避難したこと,A部落・隣組などの単位で,前後を上級生に挟まれ,6年生の引率で一列縦隊になり,集団下校していたこと,B校門を入って右手にあった,奉安殿に最敬礼させられていたこと,C薪を背負い,歩きながら本を読んでいる,二宮金次郎の銅像があったこと,D陸軍の配属将校が学校におり,恐かったこと,Eお兄ちゃん達の軍事教練,ご婦人方の竹槍訓練 ―これらのみが,国民学校 1年生の記憶だ。

 

  また,@空襲警報・解除,火の用心,灯火管制の点検「灯かりが漏れてますよ」 ―など,おじさん(部落会の会長)の呼び掛け,A会長の指揮下で,白いエプロンをした下駄履きの御婦人方による,バケツリレーの防火訓練,バケツはグレーのトタン製だった,Bそこら中にあった防火水槽,一軒に一つはあったような気がする,C土塀で囲まれた広大な土地に,瓦屋根の立派な門構え,ガラス障子の入った書院造り,美しい日本式庭園,などの地主さまの御屋敷,D板塀で囲まれた広い敷地の家主さんの二階屋,E明るい赤の石榴の花が美しかった自作農の屋敷林,E春日神社の広大な境内や松林,砂地 ―などが,思い出される。

  遊んだり,学んだり,教わったことも,戦中の記憶には全くない。とんでもない時代だ。

 

)         参考文献  新村   広辞苑  岩波書店 

太平洋戦争中,日本で広く行われたカーキ色(国防色・枯草色)の軍服に似た男子の服装。

お兄さん方やおじさん方のいつもの姿は,国民服を着て,ゲートルを巻き,編み上げの軍靴を履いていた。

ゲートル  厚地の木綿製で,色は緑がかった国防色であり,すねを巻いて包む幅8cm程の帯状のもの。

灯火管制  夜間,敵機の襲来に備え,減光・遮光・消灯すること。

殿  御真影 (天皇・皇后の写真)・教育勅語謄本などを安置し奉るために学校の敷地内に作られた施設。1930年代に,ほぼ全ての学校に普及。敗戦で,すべて撤去する。

最敬礼 最上の敬礼。もと天皇・神霊などに対して行う敬礼として定められた。

二宮金次郎:江戸末期の篤農家。相模の人。名は尊徳(たかのり) 。徹底した実践主義で,神・儒・仏の思想をとった報徳教を創め,自ら陰徳・積善・節倹を力行し,殖産の事を説いた。605 町村を復興。

教育勅語  御真影とともに天皇制教育の主柱。国民道徳の根源,国民教育の基本理念を明示した,明治天皇の言葉。

      第二次大戦下,国民統制のために作られた地域組織。町内会・部落会の下に数軒を一単位として作られ,食糧その他の生活必需品の配給などを行った。1940年制度化,47年廃止。

  農業経営に必要な土地の全部を自ら所有する農民。

 

まかぬ種は はえぬ

戦後体験記  「戦中・玉島・敗戦」 (3)

 

  大分市に居ては,危ない。急遽,倉敷に疎開し,母方の御祖父さんの家に同居する。

  玉島の水溜国民学校へ5月に転校する。

  高台にあった学校の隣は浄水場であり,そこの芝生と水がきれいだった。畳表の産地であり,泥土をまぶした灰色のイグサが,高梁川の右岸堤防に乾してあった。果てしなく長く続くイグサ干しの光景,その香り,夏の強い太陽,潮風,櫓こぎの小船,瀬戸内の夕凪,庭に水を打った夕涼み,クリークの水を田に送り込む足で踏んで回転する水車,西瓜・梨・桃・小魚・寿司 ―などが懐かしい。また,阪神の工業地帯に石炭を運んでいた焼玉エンジンのポンポン船が,瀬戸内海をひっきりなしに走っていた。

  食べ物も豊で,瀬戸内の魚介類をふんだんに使った,祭り寿司(ばら鮨)がおいしかった。祭り寿司は特別のものではなく,お客さんがあった時,もてなし料理として急遽つくっていた。農水産物に恵まれた,豊な岡山の家庭料理である。

 

  空襲警報で,あわてて山裾にある横穴式の防空壕に,避難した。防空壕に入る直前,なにかが顔をかすめた。警報解除になってみると,屋根の鬼瓦が割れていた。顔をかすめたものは,銀色に輝くギザギザした拳大の爆弾の破片だった。半歩の違いで,この世に生かして頂く。しかし,この他には,空襲の危険がほとんどなく,のどかだった。

  広島に新型爆弾が落ち,黒焦げになった丸裸の人が,ぞくぞくと街の方から来る。水水と言いながら,行き倒れては死んでいく,地獄だよ。手の付けようがない。………と言って,悲しみと怒りを必死に抑え,南無阿弥陀仏,南無阿弥陀仏,…………,南無阿弥陀仏…………と,目に涙し,ただただ,手を合わせる大人達。広島市から140kmも離れている,今の新倉敷へ,原爆被災の様子が人づてに伝わってきた。

  戦争に負ける。

  その御蔭で,空襲はなくなる。防空壕の世話にも,灯火管制の必要もなくなり,子供心にもホッとする。のちに体験した,学期末試験が終わったような,開放感を味う。

 

まかぬ種は はえぬ

戦後体験記  「戦後疎開・発電所」 (4)

 

  敗戦から一ヶ月ほどして,生きんがために戦後疎開し,大分へ戻る。

  倉敷からの汽車による移動,客車の屋根にまで乗客が鈴なりである。我々は,特2(特別2等車,今のグリーン車)と3等車(普通車)の間にある連結器の上をやっと確保する。発車してしばらくすると,戦勝国の朝鮮人が来て「子供さんは危ない。こちらにいらっしゃい。」と,6歳の長男を頭に4人の子供と母を招き,がら空きの特2に迎え入れてくれた。

  敗戦前は,朝鮮人を馬鹿にし,すさまじい人種差別をしていた日本人。特2に朝鮮人が乗ることはできなかった。敗戦で立場が完全に逆転し,特2に日本人は乗れなくなっていた。それだけに,人の暖かさが身に沁みる。子供心にも,不思議に感じる。

  被爆した広島を夜に通ったが,灯かり一つない不気味な漆黒の闇だった。

 

  敗戦のほぼ一ヶ月前717日に,大分市は丸焼けとなる。食糧事情も,住宅事情も悪い。

  そのため,復興までの避難先として,大分市からJR豊肥線で1時間ほどの犬飼町 (現在の豊後大野市犬飼町),さらに歩いて,1時間ほどの小さな水力発電所に戦後疎開する。

  大野川 支流 茜川の右岸に,ペンストック (水圧管)2列が山腹に見え,発電機2機を据付けた赤レンガの建物が見える。荷物を牛馬車や人力車,リヤカーで運んでいた時代,朝晩に1日2回 豊後竹田ゆきの乗合バス(木炭車)が通る山間の道から,発電所専用の吊り橋を渡った所に,二軒長屋がある。我が家は四畳半と六畳の二間。共用の炊事場・風呂場・トイレが,家の外にある。その他に,大きな物置小屋があった。隣は発電所の運転・管理者である。現在,1/2.5 地図によれば,発電所はなく,重力式ダムは残っている模様。

 

まかぬ種は はえぬ

                       戦後体験記  「自給自足@」 (5)

 

  われわれ子供たちのために,芋飴づくりや餅つきで,発電所を運転管理している,お隣さんが歓迎して下さる。また,ブランコも作って下さり,川釣りを教えて頂く。

  灯火が周辺に全くない。星をちりばめた,夜空がすばらしく,銀河は格別だった。裏が山であり,落ち葉や枯れ木を拾い集め,日々の燃料にする。わらび・ぜんまい・キノコなどを採る。川釣りも,山菜採りも,ただただ,自給自足のためだ。

  発電所から犬飼町の国民学校まで1里(km)あり,一人で歩いて砂利道を通学する。途中に一軒家があるだけであり,町までに誰にも行き会えない。また,トイレは家の外にあり,月明かりが無性に嬉しい。星明かりも,月明かりもない,真っ暗な夜は不気味だった。

  しかし,平然と,有りのままを受け入れ,過ごす。

 

  今,振り替えると,我慢した覚えもなく,その心境が理解できない。

  単身赴任のため,父親は不在であり,幼い弟・妹がいる。下の妹は母におんぶされていた頃である。恐らく,長男として生きることに必死で,「淋しい」「悲しい」「欲しい」「怖い」 ―などの感情は,閉じ込め殺していたのであろう。幼い6歳の子供として,おかしい。

  「幼い子供を ここまで追い込む 戦争」とは,本当に非情なものだと,つくづく思う。

 

まかぬ種は はえぬ

                       戦後体験記  「自給自足A」 (6)

 

  1.5 kmほど離れたダムの上流側に,1頭の乳牛を飼っている農家があった。牛乳を買いに,夜によく行く。空の一升瓶を一本持っていき,牛乳を絞って入れてもらう。6歳の子供には「手がちぎれるか」と思うほど,一升の牛乳は重かった。真っ暗で,人に会うこともない山間の凸凹な砂利道を,一升瓶の底を路面にぶっつけないように,転ばないように,必死に運んだ。下駄による自分の足音が山に響き,誰かに着けられているようで怖かった。重さと怖さで,何度も何度も,一升瓶を置いては休み,振り返る。月明かりや星明かりの晩は,嬉しかった。この重さや怖さを,母に伝えたことはなかった。

 

  昭和20年,あの頃の疎開地は,「労咳の病人でも居なければ,牛乳や卵は食べない」,きわめて保守的な田舎である。しかも,初めての土地で,身寄りも親戚もなく「どのようにして乳牛を探し,どのようにお願いしたのか」「ほんとうに,母は,女は強い」と,しみじみ思う。

 

)    肺結核の漢方名。当時,肺結核にかかれば,隔離病棟に入れられた。良い空気と栄養価の高い食事,安静などしか,治療法がなく,死の病であった。したがって,肺結核患者の出た家には,親戚も含めて,感染をきらって寄り付かなかった。

 

まかぬ種は はえぬ

                      戦後体験記  「自給自足B」 (7)

 

  奉安殿は撤去され,配属将校はいなくなる。軍事教練も,集団下校もなくなる。

  教科書は,国民の統合・動員に大きな役割を演じた皇国史観に関わる記述,国家神道に関わる記述,軍国的な記述 ―などを塗りつぶし,墨だらけになっていた。

  紙がなく,市販のノートはなかった。母が丁寧に糸で綴じた,立派な「手作りノート」を使っていた。不思議なことに,ノートに使うやや厚手の白い紙は,我が家に沢山あった。習字の時間があり,新聞紙が真っ黒になるまで,重ね書きした。通学カバンは,国防色の帆布で作った肩掛けタイプの小さな軍用雑嚢を使っていた。

 

  疎開者は,土地の人達と,言葉も服装も,あらゆる事が異なる。しかも,困ることに,土地の人達は,排他性が強い。

  学校で給食があり,「今度,転校してきた子は,サツマイモの皮もきれいに食べてしまう」と,珍獣を見るような目で見られていた。回りの多くが農家の子であり,彼らはその時代でも銀シャリ(白いご飯)を腹いっぱい食べていた。彼らにとってサツマイモは,まずい食べ物に過ぎなかった。だから,農家の子は,食い散らかして残していた。

  しかし,なぜか,学校が楽しく,羨ましいと思ったこともなく,平然としていた。

 

  こんな教室の雰囲気だからか,毎日,取っ組み合いの喧嘩をする。ある時,クラスの餓鬼大将の顔を殴り,鼻血を出させ,廊下を血だらけにした。叱られると思い,子供心にも小さくなっていた。担任は若い女の先生だった。「この子はえらい。自分を,自分でよく守る………。」などと,クラス全員の前で誉めて下さった。それからは,喧嘩がなくなる。

  鶏小屋に新しい鶏を入れると,血みどろの戦いが始る。

  その結果で新しい序列が決まると,新しい秩序ができ,戦いは納まる。子供の世界も,鶏と同じだ。「弱い者いじめは,恥だ」「いじめる者は,卑怯者だ」「喧嘩は1:1で,素手でするもの」 ―などを教えつつ,大怪我をしないように,ただ見守っていれば良い。「人としての礼儀や行儀,モラル」の仕付けは,幼児期に限る。

 

まかぬ種は はえぬ

                       戦後体験記  「自給自足C」 (8)

 

  学校から帰ってくると,カバンを放り出す。すぐ山ミミズを探しに行く。2匹も見つければ,喜んで帰る。長さ3 cmほどに切ったミミズを,ウナギやナマズを捕る「たて針」の針に付ける。数本のたて針を,川岸の水辺に仕掛ける。この仕掛けと,燃料にする枯れ枝集め,風呂焚き ―などが,夕方までの日課である。夜は牛乳を買いに行くこともあった。

  家で勉強をした覚えは,全くない。

  翌朝,食事前に川岸に行き,たて針を引き上げる。ウナギが2〜3匹捕れ,喜び勇んで持ち帰る。時には,折角かかったウナギがカニに食べられ,ズタズタになっていることもある。また,たて針を上げる時に,掛かっていたウナギが逃げることもある。このような時や,一匹も掛からなかった時は,ほんとうに悔しかった。なお,危ない増水時や雨降りには,たて針の仕掛けを休んだ。

  母はどこで教わったのか,薄いガラス製のビンヅケでハヤ(うぐい)を捕り始める。魚の餌は,すり鉢で粉にした蚕のサナギである。餌に呼び寄せられ,何十匹ものハヤがビンに入る。吊り橋の上から見る,ビンの中でキラキラ光っている,魚影の乱舞は楽しい想い出だ。

  よく捕れるが,ただ欠点はビンがよく割れることだった。仕掛ける時に川底の小石にぶつかっても,喜び勇んで急速に引き上げると,割れた。川底のガラス破片を拾い集めても,そこは危なくて仕掛けできなくなる。母のことだが,自分の体験のように覚えている。

 

  米・麦はほとんど手に入らず,さつまいも,牛乳,山菜・きのこ・山芋,ウナギ・ハヤ,農家から買った野菜・根菜類,3坪ほどの自家菜園 ―などで,食いつないでいた。

  おそらく,弟と妹をお隣にお願いし,母は,下の妹をおんぶして,4kmも離れた町に買い物や医者に行く。また,「食糧の買い出し」に農家を訪ね,乳母車を押していたと思う。

  都会育ちの母が,子供のために一生懸命だったのを,あらためて思う。

 

) 

たて針 長さ1mほどの竿に,長さ1mほどの太い釣り糸,およそ幅1cm・高さ2cmほどの釣針を付けた,うなぎやなまずを捕獲する置釣りの仕掛け。

ビンズケ およそ,短径20cm,長径40cmほどの大きさ,ラグビーボール状の薄い透明ガラスのビンで,片方に返りのついた魚の入り口があり,片方に直径4cmほど水が流れ込む口がある。餌を入れ,水底に沈めておき,ビンに入ったウグイを捕獲する仕掛け。

 

まかぬ種は はえぬ

                      戦後体験記  「自給自足D」 (9)

 

  栄養失調から,御出来が,よくできた。

  どこで手に入れたのか知らないが,サルファ剤の錠剤が沢山あった。その錠剤を小刀で削り,その粉を御出来に付けていた。サルファ剤しか化膿止めのなかった時代,いつ貯えたのだろう?  戦中の早い時期しか,手に入らないと思う。親は子供のために「先の先を読んで備える」ものだと,今,あらためて教えられる。

 

  現代の知見「笹の煮汁は,ビタミンCが豊富である」,これであれば,容易に手に入る。その当時,これを知っていれば,免疫力が強化され,大いに助かったはずだ。また,卵の殻は,99.9 % がカルシウムであり,酢に浸して置けば溶けてしまう。これを薄めて飲めばよい。 研究機関は,何をしていたのだろう? 人に向き合っていない当時の国,当然か。

 

まかぬ種は はえぬ

戦後体験記  「自給自足E」 (10)

 

  蛋白源の牛乳が手に入らなくなった。

  「きっと労咳の人を抱えている,伝染するぞ………」との,とんでもない噂が立つ。それで,断られた。母の着物は,食べ物に換わり,底を尽きてくる。お金も役に立たない。医者は4kmも離れた町にしかなく,日常の買い物もそこしかない。住居は狭くて,あまりにも不便である。人里から隔離された地勢は,子供の教育にも,暮しにも,好ましくない。

  幼い子供4人,さーて………。堪え忍ぶのは,あと何年………自給自足しかない。…………と,母は考え,腹を括ったようだ。

 

  kmほど離れた隣村の 長谷村柴北の集落に,手ごろな二階家が,きれいな谷川のほとりにあった。300mほど離れた所にお医者さんが,山奥へ1.5kmほど行った所に貴重な蛋白源となる豆腐屋がある。人里にある家屋であり,人の中で暮らせる。買い物は,今までと同じで,砂利道4kmほど歩く犬飼町。学校は山奥へ4km入った所にある。

 

   1年生の春休みに,急遽,引っ越す。

  ごっつい赤牛のこっとう牛“(和牛 褐毛和種)が引く,一軸の荷車で数往復して,引越しが終わる。その引越しで,華道全集の一冊がなくなる。途中で落してしまったのだろう。戻って探したが見つからない。母は,残念で,残念で…………。何にも言わないが,母の大切なものだと,子供心に痛いほど分った。

  30年後,厚手の布で丁寧に装丁された華道全集・茶道全集・謡全集・夏目漱石全集などを整理した。その時,「日焼け止めの蝋紙が,それぞれに着いていたでしょう。」「焼けてなく,全部そろえば,高く買えたのに,残念ですね。」「この手の品は,すでに買い手があり,右から左へ売れる,良いものですからね。」「………古書を大切にしなさい。」と,古本屋に諭される。

 

  家は結構広く,一階に土間付きの台所・6畳の納戸・6畳の板の間・6畳の部屋2つ,

4畳半・トイレ,二階は12畳の板の間・6畳の部屋2つ・廊下などであった。二階にほとんどの荷物を揚げ,倉庫代わりにした。残念なことに,井戸と風呂がなく,向かいのお宅から,もらい水,もらい風呂をした。有り難いことに,親切な8人家族の農家で,親戚のように大切に扱って頂いた。今まで,納屋で寝ていた大きなオルガンを板の間に置く。

  人里であり,医者が近く,蛋白源の豆腐があり,川も近い。家は広く,トイレ・台所が家の中にある。これで,多くの懸案が解決する。

 

  大分付属,倉敷玉島,大分犬飼・長谷と,一年間に3回も転校する。やっと4校目で落ち着く。この山奥で,2 ~6年生(7~12)5年間,家から50mほど先にある川で真っ黒になりながら,過ごした。私の一生の財産,基礎体力は,この長谷村で創られた。

 

まかぬ種は はえぬ

戦後体験記  「飢えから 逃れる」 (11)

 

  母は,早速,ビンズケでハヤを捕り始める。

  私は,後ろ隣の御兄ちゃんの指導により,ウナギ筒と同じ,竹籠の てぼを使ってウナギ捕りを始める。餌は山ミミズやミミズで,夕方に川底に沈め,朝方に引き上げる。一本に何匹ものウナギが入ることがある。揚げるときの重さや,ウナギのハネ音は,何とも言えない。嬉しさの余り,川の中で見たくなり,開ける。このときに,逃げられることがある。これは悔しい。しかし,性懲りもなく,またやる。

  てぼは,たて針よりも,よく捕れた。たて針は,止めてしまう。

 

  400mほど離れた所にある農家が乳牛を飼っており,牛乳も手に入るようになる。発電所の場合とは違い,昼間の午後に伺えばよかった。変な噂も立たずに,大事にして頂いた。

  鶏を放し飼いにしている農家が周辺に何軒もあり,卵をよく分けて頂いた。今で言う地鶏の新鮮な卵を,安く手に入れていたことになる。不思議に,御出来もなくなる。

  子供らの成長に必要な栄養源(蛋白質・カルシウムなど)が確保でき,母は一安心。

  近所の御兄ちゃんがよくしてくれ,集落の子供らと遊び始めた,小2の我が子を見て……もちろん,弟・妹らも泥だらけになって,……水草の茂ったきれいな水路,小さな砂丘,広々とした草原 (祭り広場),神楽殿,社,篠竹林,竹林,山,川 ―などで,真っ黒で元気に遊びまわっている……母はホットしたと思う。

  後日,思い出して「擦り傷が絶えなかった。それを気にすることもなく,集落の子らと,暗くなるまで夢中に遊んでいた。…………」と,母は微笑んでいた。

  自動車のない時代,道は子供たちの安全な遊び場だった。川・水路の水が危険な領域だったが,集落のお兄ちゃん・お姉ちゃんが常に気配りし,小さい子供たちを守っていた。

 

まかぬ種は はえぬ

戦後体験記  「にわか 本百姓 @」 (12)

 

  半年もしない内に,母はビンズケで魚を捕らなくなる。

  米も,麦も,蛋白源も,野菜類も,日常的に手に入る。そのため,ビンズケの魚捕りは要らなくなる。私のウナギ捕りも,食のための意義が薄れ,遊びの一つになる。

 

  集落の一員として仲間入りしたいがために,田植えや畑仕事を学ぶ。

  子供をおんぶして,お向かいの農作業を,鎌も持ったことのない母が時々手伝い出す。農作業をしている畑や田圃の付近で,弟・妹は遊んでいた。学校が休みの時,その監視役は私の役割になる。

 

  農家の子供らと同じように過ごせと,戦後の超インフレの中,母は環境を整え出した。

  手始めに,家の近くにある柿・梨の大木を,まるまる1本づつ使用権を買い取る。子供らが,地元の子のように,好きなときに好きなように木に登り,柿や梨をもぎ採って,食べられるように…………と,願ってのことだ。家の前にあった竹薮の使用権も手に入れる。

  子供が,ひがまないように,伸び伸びと育つようにと,母の力点が変わってきた。

 

  無くさないように,掛け紐をつけて,肥後守 (折込式の小刀)を母がくれた。これで,集落の子供たちと同じように,竹を切ってオモチャが自分で作れる。その当時の男の子には,最も大切なものであった。学校で昼時になれば,裏山で篠竹を切って,それを箸にして使った。戦後2年目に,早くも使い捨てをしていたことになる。

  3ヶ月ぶりに父は,普通の布で作ったグローブ4つ,バット2つ,柔らかいボール2つをみやげに,単身赴任先から帰ってきた。「お兄ちゃん達から,野球を教えてもらいなさい」とのメッセージだった。父からキャッチボールを,教えて貰った。

 

)        参考文献  新村   広辞苑  岩波書店

本百姓 江戸時代,家屋敷・田畑を所持し,年貢・諸役を負担し,村の一人前の構成員としての権利・義務を持つ農民。

 

戦 後 体 験 記 (S2226)

 

                                                         (参考文献 日経ビジネス 創刊20周年特集1989 9-25)

 昭和22                                    昭和24  

   1月  マッカーサー,2.1 ゼネスト中止命令      10  中華人民共和国 成立

   3月  教育基本法公布                          11  湯川秀樹 ノーベル物理学賞 受賞

   4月  新制小・中学校スタート                昭和25

   5月  日本国憲法公布                            朝鮮戦争 勃発                           

  12   新民法公布(家族制度 廃止)                 朝鮮戦争特需ブーム 始る      

 昭和23                                              日本労働組合総評議会 結成

   1月 「日本を反共の防壁とする」               11   NHKテレビ 定期実験放送開始

             (ロイヤル米陸軍長官)             昭和26 工業生産額が 戦前レベルを超える

    米国の対日占領政策 転換顕在化               昭和27 サンフランシスコ講和条約,日米安全保障条約

)         参考文献  新村   広辞苑  岩波書店

家族制度 家族員が家長の強い統制下にある制度。家族の存続・維持に関する相続・分家・隠居の制度。

日本労働組合総評議会 1950年,産別会議・全労連の左翼的方針に反発した民同系労組が結成した労働組合の全国組織 (略称 総評)GHQの支持を受けて発足したが,やがて戦闘性を強め,労働運動の中核をなす。大多数の主要民間単産により結成された全日本民間労働組合連合会連合に,官公労組が加わり発足した日本労働組合総連合会 (略称 連合)の結成により,1989年に解散。

 

まかぬ種は はえぬ

戦後体験記  「にわか 本百姓 A」 (13)

 

  家から歩いて5分ほどの所に,雑木林の山地 広さ30 (10m四方) ほど を借りて,母は開墾しだした。

  この他に,歩いて30分ほどかかる阿蘇の溶岩台地に,半反 (150  20m四方 )ほどの畑を借りて,家庭菜園にする。農家で余った苗や種を譲り受けて,トマト・なすび・キュウリ・ねぎ・キャベツ・ほうれん草・ピーマン・にがうり(ゴーヤー)・かぼちゃ・砂糖きび・トウモロコシ・じゃがいも・サツマイモ・さといも・玉ねぎ・ゴボウ・ほおずき ―などを,少しずつ植えていた。集落の子供達と同じように,草取り・害虫取り・収穫などを手伝った。新たに開墾した畑の野菜類が育った頃に,遠い高台にある この畑は返した。

 

  徒歩で10分ほどの所(神宿橋)に,道路に面した川縁にある畑 一反 (300  18m×54m) を,新たに借りる。そこは素人でも確実にできるサツマイモ畑となり,冬は麦畑となった。その頃には,小4になっていた。軍用スコップや鍬で畑を耕したり,芋掘り・麦踏みなどの記憶がある。少しは,母の手伝いになったかと思う。

  土と向き合う母の姿は,柴北だけで見る。母の農作業は,都会育ちの違和感を薄め,仲間に入れていただき,お金が通じない自給自足の農村で,「生き抜くための智恵」だった。

 

  神宿橋の畑は,大いに役立つ。

  こちらが知らなくても,通りがかりの村人は,いつも我々に興味津々である。変な農作業をしていると,親切に声をかけ,教えて下さった。その反面,島さんの麦刈り,…………,………… ―などと,多くの話題を提供する。その御蔭で、親しみを持って,村の皆さん方が,親戚付き合いをして下さった。

  まず,鍬が旨く使えず,軍用スコップで耕す。麦の茎は固く,すべる。素人が鎌で麦を刈ることは,危なく,また難しい。挑戦した。しかし,大怪我をすると判断した母は,何と風呂敷きを持ち出し,花の鋏で麦の穂だけを摘み取り,風呂敷きに穂を入れ出す。

  これだけでも,村人からすれば,滑稽で,話題性があり,大いに優越感を誘う。

  しかも,底抜けに明るく,前向きの行動派,…………の母は,恥ずかしがることもなく,笑みを浮かべながら同じ事を繰返していた。肉体的にも,精神的にも,タフな母だった。

 

まかぬ種は はえぬ

戦後体験記  「にわか 本百姓 B」 (14)

 

  豆腐を買いに,往復 3kmの御使をよくした。豆腐 2丁と油揚げであり,牛乳のような重さもなく,しかも昼間であり,楽だったためか,記憶は薄い。豆腐屋の娘さんは,同じクラスで,出来がよく,学年で常にトップだった。

  その頃,大豆は,田んぼの畦道や田んぼ境の土手に,必ず植えてあった。田圃の耕しは牛の引く鋤が使われ,稲の運搬は人力・牛・リヤカーなどである。人力による農作業だから,畦道の大豆は,何の支障もなかった。大豆を植えた畑も珍しくなかった。土地で取れた大豆で,豆腐を作っていた。農家は,ときに豆腐や蒟蒻の自家生産をしていた。 町まで行けば,味噌を購入できたが,農家は自家生産していた。まさに自給自足が基本だった。

 

  道路脇の畑で,サツマイモ 1年分が収穫できた。

  大量のサツマイモは,畑に穴を掘り,そこに貯蔵する。食用として必要なときに,ここから取り出す。最初の年は,貯蔵庫に水が入り,半分ほどのイモが腐る。この経験から,貯蔵庫を3つほど作り,リスクの分散を図る。しかし,それ以降,腐らせることはなかった。半分も腐ったが,困りはしなかった。飢餓は,集落に住むことで,すでに解消していた。前回で述べたように,サツマイモや麦を必要として,畑作が始った訳ではない。

  寒い早春の麦踏みや土寄せ,畝立ては,5年生の頃から,一人でもするようになった。

 

  サツマイモがまずいとは,思わない。しかし,今でも,サツマイモは少し食べるが,手をつけない。戦後体験を二度としたくないとの本能からか,戦争の後遺症・トラウマ(精神的外傷)なのか? 手が出ない。麦も,なんとなくいやだ。はやりの農園も,山菜採りも,釣りも,なぜか,その気になれない。代用食のサツマイモと違い,止む無く食べたわけでもない野菜・果物・山菜・魚などに,嫌悪感はない。生き抜くための戦後は,いやだった。

 

  外地から引き上げてくる復員兵の出迎えは,集落の子供たちの役割だった。

  村境のトンネル出口に,集落の大人ら,子供たち,十数人が道路脇に整列して,お迎えする。世話役が口上を述べ,復員兵が軍人独特の敬礼をする。その時,よく覚えていないが,たしか「異国の丘」を子供たちが合唱していた。復員兵は,自力で帰ってきており,よれよれになった軍服を着て,戦闘帽を被り,やせ細り,力なく,頼りげない歩調だった。ズック製の小さな背嚢を背負っていた。それが荷物のすべてである。まさに,身一つで帰って来る。荷物の多い人で,軍用毛布一枚を肩に掛けていた。片腕を失った復員兵,片目を失った復員兵らは,痛々しかった。子供心にも,傷痍軍人の先行きが気になる。小さな村だったが,復員兵の出迎えは年に数回あった。

 

)        参考文献  新村   広辞苑  岩波書店

土寄せ  農作物の成育期の中頃以後,土を根株にかき寄せること。      畝立て  畑の畝を作ること。     

代用食 米や麦などの主食の代わりに用いる麺類や芋類などの食品。

ズック 麻または綿の太撚糸で地を厚く平織りした織地。多くインドから産出。テント・靴・鞄・帆などに用いる。(doek  オランダ)

 

まかぬ種は はえぬ

戦後体験記  (15)

 

  川釣りも教わる。釣竿は,篠竹の薮から竹を切り出し,七輪の火に炙って油を抜き,真っ直ぐに伸ばして作る。餌は川底に居るカワゲラ(ざざ虫)を使い,ハゼ どんこ釣り 小2で始める。また,孔釣りも始める。長さ1mほどの細い竹に針をつけ,ナマズやウナギの居そうな石の下に挿し入れて釣る。いずれも,最初は面白かったが,熱中しなかった。

  御兄ちゃん達と,玉石などで川に堰を作り,長さ1mほどの円錐形の竹籠 どうで,川蟹をよく捕る。また,メダカがたくさん泳ぎ,水草が繁茂している,きれいな灌漑用の素ぼり水路を,二人で足と手を使って,フナを追い詰め,手掴みする。ときには,ナマズ・ウナギ・カニも,手掴みで捕れた。こんな状況だから,知らない内に泳いでいた。

 

  小3の頃,ヤスやモリで魚を突くことに,夢中になる。父方は,江戸時代,紀伊で秤座を代々,司っていた家柄であった。その残滓として,竿秤の目盛りを刻むY型の金具が,大きな道具箱に一杯あった。これを研いでヤスを作り,集落の子らと使う。貴重なものとして,戦中の強制供出を免れた,今で言う文化財を,3年あまりで失ってしまった。

  川を横断して刺網を上流に張り,下流より子供らが横断方向に一列に並んで泳ぎ,アユやハヤを追い込む。下流にも刺網を張る。その網を上流の網に 5mぐらいまで近づけていく。魚が逃げ回っている。その中に入り,潜って手掴みする。よそ者の悪は,ダイナマイトを川に投げ込み,村人の目を盗んで魚を捕る。今では考えられない,小46の想い出。

 

まかぬ種は はえぬ

戦後体験記  「わが故郷 柴北」 (16)

 

  今は,大分県大野郡犬飼町柴北になっている模様。(現在の豊後大野市犬飼町柴北)

  JR大分駅から豊肥線で4駅  小1時間  20km余り の犬飼町,ここから さらに4km山奥へ入った所が「長谷村 柴北」である。道路で言えば,大分から国道10号線を宮崎方面に向い犬飼で右折し,大野川を犬飼大橋で渡り,茜川に沿って57号線を豊後竹田・千歳方面へ4kmほど入り右折, 250mほどの短いトンネルを抜ける。ここから,柴北川に沿った2kmほどの両岸が,「長谷村 柴北」である。

  戦後の飢餓を逃れて,ここで5年間を過ごす。国民学校2年生から小学校6年生まで,お世話になった豊な集落である。

 

  学校までは4kmもあり,毎朝,小走りで,お兄ちゃんやお姉さんを追っていた。「今度,来た子は,いつも走って登校している」と,村の話題となる。前日に遊び過ぎ,毎朝 寝坊する。近所の友達が誘いに来たときは,いつも朝食中である。先に,行っといて,後を追っかけるから…………。しかし,遅刻した記憶はない。校門を入る前には,追いついていた。この御蔭で 走力と持久力が身につき,一生の財産となる。

 

  土木技術者の視点から,幼い頃の記憶を頼りに,飢餓を凌いだ故郷を紹介する。

  阿蘇の溶岩台地,それに沿っている大野川の支流 アユがのぼる柴北川。長谷村は,その名の通り,柴北川の両岸に沿った狭い段丘にある村である。江戸時代のものと思われる,両岸の山裾に延々と数kmも続く灌漑用水路。標高50mほどにある段丘面の水田,山腹斜面の杉林,標高120mほどにある溶岩台地の畑。集落は,段丘面と台地にある。

  その中でも水田が多く,土地に恵まれている柴北に住む。

 

次に,柴北について述べよう。

  大きな茅葺きの稲作農家。整備された農道や田畑。広い敷地の庄屋さん宅。溶岩を切り出した灰石による石積み。溶岩台地の下を抜ける一車線の素掘りトンネル。肥後の石工が作ったと思われる立派なアーチの石橋が,河川延長 2 kmの間に4つもある。また,飛び石による渡りが4ヵ所もあった (おそらく,今は小型車の通る沈み橋になっていると思う)。水車小屋が3つ。医者・鍛冶屋・雑貨屋・豆腐屋がそれぞれ一軒。小学校の先生が一人。510軒の集落5つ,火の見櫓が数箇所。お宮,お寺。養蚕・桑,椎茸のほた木・炭焼き釜・クヌギ林,共有林。麦・煙草・蒟蒻・蕎麦・西瓜などの畑,草場。お祭り広場,神楽殿,煌びやかな御神輿,鎮守の杜,お社,6~7世紀の頃 柴北を支配していた 豪族の墓と思われる 大きな古墳,しっかりした石橋の神宿橋……などと,江戸時代から,いや,古墳時代からの豊な土地柄と推測できる。それだけに,閉鎖性の強い,排他的な集落でもあった。

  アーチの石橋もそうだが,圧巻は,洪水時の流速や洗掘に対処するため,川沿いに設けられている篠竹や竹の林,川縁の柳である。大洪水の後,部分的に洗掘された地膚から,次が分る。自然地形に合わせて,その地中には巨石が積まれ,地表からは見えない構造となっていた。さらに,川沿いの家の上流側には,奥行きのある竹薮を設けてあった。なお,洗掘された個所などの修復・保全は,青年団のお兄さん方が総出で行っていた。

  いま,思い出しても,すごい歴史的な土木構造物が,生活の中にあった。これが,土木なんだと,あらためて教えられる。

 

  夏には蛍が乱舞し,秋には赤トンボが群れをなしていた。空に輝く星雲,かわずの鳴き声,蝉しぐれ ―などが懐かしい。すばらしい記憶に,蛍合戦がある。蛍の群,二つがそれぞれ塊となって,川面で出会い,乱舞する。土地の人は,「一生に一度 見れるかどうか,よく見ておきなさい。」と言っていた。これらは,川沿いに住んでいた特権,川の恵みだ。

(農薬を使っていない時代,現在は,その当時の良いものを失ってしまった。今から復活か。)

  わが故郷 柴北 を出て,55年になる。なぜか,一回も訪れていない。食糧の買出し先を住処にしてしまい,必死に生きた「母の凄さ」のみが鮮明に残る。

 

  食糧事情も,住宅事情も,やっと落ち着く。敗戦後 6年を経て,大分市に帰る。中学は,家から歩いて15分ほどの上野ヶ丘中学に入る ( 昭和264 )

 

昭和27 4  サンフランシスコ 講和条約,日米安全保障条約発効

                  10  保安隊発足

         昭和31     もはや戦後ではない( 31年度 経済白書 ) 

 

     

 

)  ことわざ小事典,福音館書店,1957.3.1 より

天は 自ら助くるものを 助く 天の神は,他人の力にたよらず,自分自身の努力で事に当る人に,幸福をもたらすものである。

  (初版 2006.08.13)

 

                 響 (2006.11.08 )

 

  「戦争について盛り上がる8月」 (2006/8/13) までに,戦後体験記を書く。その動機は,原稿の前文に記した通り,大先輩の指摘です。

 

これは大変なことを決断した。難行苦行になると覚悟する。

しかし,書き出したら,通常の生活リズムを乱すこともなく,まるで連想ゲームのごとく,次から次へと,記憶だけで書き進められた。推敲も入れて,3週間で脱稿する。

筆の遅いはずの私,不思議ですね。しかし,世の中が落ち着いてくると,急速に記憶がなくなる。時代変革の大きかった,敗戦後の昭和2021年,小1〜2の話が,大半です。幼い頃に刻み込まれた記憶は,その後の成長の過程で無意識に関連知識が積み込まれているものですね。幼少の頃の大切さを,あらためて自覚する。また,書いたことで,「母の凄さ」「女の特質」を再認識した。40年前に,自覚していたら,違う人生になっていた。ちょっぴり,残念。

 

今の若い人に通じない言葉が,ひとりでに出て来る。さーて,どう処理したものだろう?? 苦し紛れに,広辞苑を引く。すごい辞書ですね。歴史的な事実を端的に解説している。・・・・・・注記を入れて,広辞苑に歴史的事実を語らせることにする。いつも活用している広辞苑のすばらしさを,あらためて学ぶ。

 

この3ヵ月間ほどで,拙著「戦後体験記 いやだ」は,@中学・高校の同期生が発効している月刊 E-mail新聞 (106 発行)に,4回に分けて掲載,A日本道路公団 研究所OBが組織している 道試会 (312)のホームページに,3回に分けて掲載,B顧問をしている二つの会社の社員に寄贈,C真空圧密技術協会 http://www.nandh.jp NPO地質情報・整備活用機構 http://www.gupi.jp などの親しい同志に進呈,D昔からの知合いである地盤工学分野の大学教授11JH OB 22,テニス仲間30らに贈呈,E昔の友人ら(同窓30・西麻布の会230)にも贈る,F財団法人 大阪国際平和センター 「ピース おおさか」http://mic.e-osaka.ne.jp/peace/ に資料として寄贈 ―などで,優に500を越える方々に お読み頂いた。なお,「この体験記は,どなたに,見て頂いても,差し上げても,結構です」を付記した,送り状も多用する。それらのため,今も,読者の実数は増えつつある。

 

これで,人間としての「年寄りの債務」を,ひとまず 果たしたことにします。

こんなことが,受け入れられ,平然とできるのも,高齢のせいですね。昔の身近な話題のためか,結構,喜ばれています。残念ながら,読んで頂けない人も,まれに居る。

60名を越える方々から,E-mail・封書・葉書・電話・口頭などで,反響がありました。感激のあまり,長文のE-mail・封書・葉書などの感想文や礼状が,何通も届く。句会のように,それぞれ特有で,視点の異なる多様な教示や批評をいただき,ただただ,感謝。

つぎに,楽しみを頂戴した,読者の声を集録します。ただし,原文から抜粋しリライトした文章であり,文責は島にあります。

 

この体験記に刺激を受け,戦後体験記を書き出した人もいる。

 「本土決戦に備え,大本営は 天皇を長野市松代の大地下壕に お匿いする,予定だった。国が滅んだ後,壕に住まわれた天皇は,どうなるのか? 軍部の愚かさが悲しい。残念ながら,愚かな彼らと同じ血が,我々の体に流れ……」「よく覚えていますね,体験した人しか書けない,貴重な……」「親に渡したら,活字を見ない親が,夢中になって……」。ある小学校の先生は,「よい教材になりますので,使わせて頂きます」との反応。「母や兄の苦労が思い出され……」と,読んで,泣いた人も数人。「私は引揚者です。敗戦時 6歳の二女で,大事にされ,つらい想い出はありません。しかし,母や兄が苦労した話は,聞いています。あらためて,父母や兄に聞き,子供や孫達に伝え……」「私も黄燐焼夷弾の降る中を逃げ回り,臥せた1m先に機銃掃射を受け,6歳の眼に焼きついています。命があったのが,不思議なくらい。未だに,飛行機の爆音に敏感です。なんとか,飛行機には乗っていますが……」「敗戦から60年,忘れかけていた数々の辛い体験が蘇り,あらためて伝承の大切さを噛み締めています」「自分のことで,時代を語る,大切ですね」「戦後体験の伝承を,責務ではなく,債務としている。そうですね……」「戦後,入試に出ないとして,現代史を語らなかった。おかしい……」「昭和史に学ぶ。子供達のために,大切なことと思う……」「……を伝承して来なかった。これは不作為の罪に当りますね。気がつかなかったとは言え,人としての借りが残っていました。……ありがとう……」―などの,思いがけない反響がある。

 

  今も,学術団体・NPO・学会などの活動で献身的に世界を飛び回っている,私が25歳の頃から畏敬している7つ年上の技術者。趣味はクラシック音楽で,とりわけ モーツアルト クラリネット五重奏曲 イ長調 を好み,強い使命感,高い志,民間育ちの地質家から,長文のE-mail814日に二度も頂く。つぎの16行は,A44枚の感想文からの抜粋です。

  「今後,石油の需要は全世界で年率2%上昇すると考えられている。一方,既存の大油田,大ガスフィールドからの生産は,年率4%の割合で減少すると予測されています。辛うじてバランスしていた需給は,2005年に需要がとうとう供給を上回ってしまいました。………」

  「多くの大油田は何十年も汲み続けて,油が無くなってきています。大慶油田では既に汲み上げている液体の90%以上が水になっています。最後の頼りにしているサウジのガワール油田でも,汲み上げている液体の30%以上が水になっている。…………」

  「このようなわけで,2015年における…………生産可能量は,需要の半分に過ぎない。これが実態のようです。……中略……,そのため,カナダのタールサンドが異常ブームを呼び,バイオ・エタノールにコーンが大量に使われるようになった……」

   「わが国は,石油の99%を輸入し,食糧の60%を外国に依存している。これらの争奪が原因で,戦争は始まる。……札束でほっぺたを叩いて,資源や食糧を輸入できる時代が,長く続くとは思えません。……戦争回避には,エネルギー・食糧 リスクの極小化 が不可欠です。」「残念ながら,現状は,軍事面のみに偏り,国防意識の欠落した変な国,日本……」

   「大量生産・大量消費・大量廃棄物の時代には考えられない もったいない を戦中・戦後に体得した。これは現代の宝物です。」「…… 孫達が親になる頃,島さんや私の母が舐めた辛苦に,陥るのではと,危惧しています。」「……つい,余計なことを書いてしまい……」

 

 藤原てい   流れる星は生きている  中公文庫 686 を読みましたか?お勧めします。

この小説は,敗戦後の1945年,新京(長春)から愛児(0歳,3歳,6歳)を連れて,母一人で決死の引き揚げを敢行した,凄まじい体験記です。「つらすぎる現実は書けない」とされている。しかし,それを書いています。戦後の空前の大ベストセラー(S24)。夫 新田次郎氏を作家として立つことを決心させた,壮絶なノンフィクション。この小説に出てくる3歳の藤原正彦氏が,「国家の品格 新潮新書 141」「祖国とは国語 新潮文庫 -12-8」の著者であり,お茶の水女子大 教授の数学者です。「戦争の非常さ」「人間の愚かさ」「母のすごさ」が,具体的に理解できる良書。また,「古森義久   凌とした日本  ―ワシントンから外交を読む   PHP新書430」「牛村 著「戦争責任」論の真実  戦後日本の知的怠慢を断ず PHP研究所」,「保坂正康   昭和史入門 文春新書564,これらの書籍は「平和を考えるのに必要な一つの視点」を提供しています。

 

戦後を体験した中学の同期生,しかも,いまも尊敬している懐かしき女性らから,「戦後の辛い体験が,血となり肉となり,育んでくれた宝物ですね。深く心に響き,……」「兄や妹,子供らに見せ,その頃の話を母や父から聞き,伝承に努めます」「よく,思いきって書きましたね。自分だけの経験だと尻込みせずに,一人でも多くの人が体験を書き残さなければ,子供達には伝わりません。……」  また,同年代の男性らから,「幼き時期……苦しき時代の想い出しかない,悲しいですね。……子供の目に,男は駄目だったのでしょうか。……,若い人へでなく,同世代への立派なカンフル剤です。」「つくづく今日のある貴兄のルーツが,納得でき……」「@近所のお兄ちゃんらに見守られ,真っ黒になるまで川で遊ぶ,A恵まれた環境 ―などを新鮮に感じ,羨ましさで一杯になる。これは,何でしょう? 礼儀などの心に係わる優れた文化や自然環境を,私たちが継承できなかった所為ですね。」

戦中・戦後を体験した人達から,「極限に近い辛苦で,はっきりと見えるものがあります。この伝記で言えば,母親の凄さ,母への思い,親子の情,長男の責任感などです。あらためて来住方を顧み,父母・兄・姉らに感謝しています。」「子供や孫達に,このような辛い体験は,させたくないですね。二度と戦争は,……」「忘れかけていた,身近な体験を色々と思い出しながら,感銘深く読ませていただき……,子供や孫達に語り聞かせます。」「児童教育に不可欠な要素を含む,この体験記は社会貢献しますね。」―などの賞賛や謝辞を頂く。

 

  このように,長文のメールや礼状が,何通も届く。「原稿書きは,ほめ言葉で生きている」と言われる。なんだか,分るような気がした。

  舞い上がりそうな喜びを,専門領域で頂いたことがない。それだけに驚いている。土木施設は,空気や水のように,不可欠な存在である。しかし,支障が生じない限り,世間はその有難みを意識できない。社会における土木の特質が,あらためて胸に沁みてきます。

  素晴らしい反響を頂いた原泉は,「体験記の迫力」,いやー「母の懐の深さ」によるのでしよう。理屈としては,「老若男女に通じる,普遍的価値は,母や食にある」と言えよう。しかし,反響の多くは,5575歳の方からであり,男女半々であった。

 「伝承の視点」から拙著を評価すれば,成功とは言えない。「もはや,戦後ではない (S31)」と言われてから,50年になる。学校教育・地域社会・家庭などにおける「歴史的見識の欠落」「人としての教育(モラル)欠如」「体験の伝承不足」 ―などとも相俟って,21世紀を担う人の多くは,戦争の現実感 (リアリティー) がない。飢餓に育まれた感性を体得できなかった「豊な時代に育った,21世紀を担う世代」へのアピールには,さらなる工夫が必要です。

 

(2007.09.01 編集)